吉井簡易裁判所 昭和32年(ろ)49号 判決 1958年6月26日
被告人 熊谷豊
主文
被告人は無罪
理由
本件公訴事実は「被告人は高木栄三郎の経営する山林業の手伝を為し自動車の運転業務に従事中の者なる処昭和三十二年七月十六日午後四時十分頃普通貨物自動車(ジープ)福第一す―四一六四号を運転し浮羽郡浮羽町より同郡田主丸町方面に向け時速二十粁位の速度で国道上を西進し浮羽郡吉井町吉井郵便局前附近路上に差掛つた折前方道路右側を自転車に乗車し同一方向へ進行中の清水倉太を認め之を追越さんとしたのであるが斯る場合自動車の運転手たるものは災害の発生を未然に防止する為め前者に対し警笛掛声等にて合図して相手の注意を喚起しその応答に従つて追越を為し或は追越に当つては相手と安全な間隔を保持し常に相手の動静に注意し如何なる場合にも之を避譲し或は一旦停車出来る様に措置して進行すべき業務上当然の注意義務があるに拘らず之を怠り被告人は約十米位手前地点に於て自転車にて同一方向に進行中の清水倉太を現認してその左側を追越すべく之に対し只警笛を吹鳴した丈けで相手の応答も得ず相手は最早自己の前方を横断する事はあるまいと速断してその左側を通過し追越さんとして進行し清水に約二、三米に接近した折清水が突然左にハンドルを切り進行前方を右より左に横断せんとするを認め危険を直感し急遽自己も左にハンドルを切ると同時に急停車の措置を採つたが及ばず遂に自己の車の右後方を清水の自転車に接触させ同人を車諸共その場に転倒させ因つて同人に対し治療五ヶ月を要する傷害を与へたものである」と言うのである。
そこで本件事故発生当時の情況を詳細に研討すると被告人が注意義務を怠つた点換言すれば過失の点を除き殆ど公訴事実の通りであることが吉井警察署司法警察員作成の実況見分調書(検第四号)被告人の供述につき同署司法警察員作成の供述調書(検第六号)同人の供述につき吉井区検察庁副検事作成の供述調書(検第八号)其他検察官提出の各証拠書類の各記載並検証の結果及各証人(清水倉太分を除く)の各証言を綜合して認めることが出来る。
一方吉井町中央市場内に住んでいた清水倉太は事故当時中央市場から国道に出て直ぐ押して来た自転車に乗つて其儘久留米方面に向つて右側(従つて北側)を進行していたのであるが佐藤種苗店前頃から左側(南側)に可成急角度に前後の見通しもせず漫然と斜に横切り後から進行して来た被告人の自動車の後部の予備タイヤーに突掛けたのである事が前掲各証拠によつて認められる。
如何なる場合でも自動車の運転手たるものは前者に対し警笛掛声等で相手の注意を喚起しその応答に従つて追越を為し或は追越に当つては相手と安全な間隔を保持し常に相手の動静に注意し如何なる場合にも之を避譲し或は一旦停車出来る様に措置して進行すべき業務上当然の義務があるというようなものではない。交通頻繁な箇所では斯様な事は不可能の場合も多いし却つて不適当である場合が多い。交通まれな田舎道でない限り輻輳する道路上では全状況を前提とし各場合に即応して災害の発生を未然に防止する最善(一般的でなく其個人の)注意を為すべき義務はあるが全体の一個にのみ注意を傾注することは却つて事故を引起す事となることは理の当然である。そこで本件についてこれを考えて見ると本件事故現場は吉井警察署司法警察員作成の実況見分調書にも「道路の南側は吉井郵便局の庁舎があつてその西側を国道より南方に幅員三、五米位の吉井、十籠線と称せられる県道が分岐している外各種の商店が軒を並べている北側は道路に併行して各種の商店が軒を並べている状況この一帯は吉井町で最も商店等が密集している繁華街である」「本見分の現場に足を止めた群集は附近の者を初め四、五十人位で又見分中現場を通行した自動車等は西鉄バス等相当多数を数える状況にして浮羽郡を東西に縦断している唯一の国道である上吉井町の中心商店街のため浮羽郡内で最も交通量の多い処である。尚道路両側に各種の商店が並び且つ交通量も多いところからこの附近一帯を福岡県公安委員会は道路標識を以て時速二十四粁と速度制限を指定した地域である」と記載されてあるような交通の輻輳している箇所である此箇所に於て右側を先行する清水倉太の行動の注意に専念する事は許されない事物弁別のない幼児なら別として大人である清水が前後を見極めず突然横断することはないものと考えるのが常識である被告人は警笛を以て自動車の通行を警告し此箇所に適当である制限速度内の二十粁で通過したのであるから被告人の注意には欠くる処はない。
元来交通は其箇所の状況によつておのづから其秩序が決定される此秩序の急激な変化を強行される処に事故は発生する速度は勿論一切の行動は此秩序を守つてこそ交通の安全は守られるのである。本件事故は清水が此秩序を乱し自転車に乗つて右側を通行した上前後の通行の状況を見極めず漫然と交通の頻繁な道路を横断した為め発生したものである。
同人が法律を守つて左側を通行するか横断する前に交通の状況を見極めるか其一を実行して居たならば本件は発生しなかつたものと認められる。
清水は「自転車を押して福岡相互銀行の前から乗つて左側を進行しながら飯田家具店の前まで来たときに自動車と衝突したようです」と証言したが、之が全く虚偽の陳述である事は前掲各証拠と対照して明白な処である殊に左側を通行していた清水が被告人の車の右側に衝突する事は現場の道路の広さでは物理的に不可能である。
又同人は衝突する迄の事情を説明せず記憶がない旨の陳述をしているが当時の模様が一切不明なのは同人が漫然通行していた事を裏書するものである。
本件一切の証拠を以てしても清水の過失は認められるが、被告人の注意義務に欠くる処は認められない。
要するに本件被告事件について犯罪の証明がないから刑事訴訟法第三百三十六条後段によつて主文の通り判決する。
(裁判官 黒田実)